前田利家
前田利家「死に装束なんか着たくない」
1599(慶長四)年3月、長く病み患っていた前田利家はついに危篤の状態になります。
利家の愛妻・まつは、夫のために経帷子(=死に装束)をこっそり用意していました。
利家の死に装束を用意してるとはいわず、自分のためといって縫っていたのです。
利家の死の二日前、まつは完成した経帷子を利家に勧めますが、病床の利家は「うるさの経帷子や。おれはいらぬ、御身(おんみ)跡から被り居れやれ」……死に装束なんかうっとおしい、オレは着たくない。まつ、あなたがこれを着たらいいじゃないか」などと、ケラケラ笑いながら言ったそうです。
前田利家のエピソードを集めた『亜想公御夜話』などに見られる逸話ですから、恐らく本当にあったことでしょう。
天下分け目の「関ヶ原の戦い」の約一年前の死です。
若き日から豊臣秀吉の親友であり、頼れる家臣でもあった前田利家の死は、豊臣方の力を大きく削いでしまいました。
山中鹿之介(山中幸盛)
山中鹿之介(山中幸盛)「憂きことの なおこの上につもれかし 限りある身の 力試さん」
島根県のご当地ヒーロー、山中幸盛こと鹿之介。小学校などで生徒が劇をする時、山中鹿之介の生涯が今でもテーマに選ばれるほどの人気者です。
尼子十勇士(あまごじゅうゆうし)の筆頭として、先祖代々仕えてきた尼子(あまご)家の再興が彼の悲願でした。
しかし、敵に捕縛され、数えで33歳の若さで亡くなっています。
死を目前にしつつも「困難よ、もっと私の上にふりかかってこい 力のつづく限り、私は戦うつもりだ(意訳)」などとパワフルな歌を詠んだと伝えられます。
ほかにも「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と、空の三日月に願掛けしたという話が古くから伝わっています。
ずいぶんと我慢強い人ですね。
まぁ、残念ながら、この鹿之介の辞世を本当は彼が詠んだという確証はないのですが、彼以外にふさわしくないともいえる歌なので今回は紹介しました。
明治時代以降の講談の演目の中で、鹿之介とこの歌は結び付けられていったようです。
講談は大学の講義ではなく、歴史フィクションをドラマチックに語って楽しませる演芸です。
ゆえに本来ならば「詠み人知らず」の「憂きことの(以下略)」の歌も、鹿之介の悲劇的なキャラクターを際立たせるために採用され、人気になった……というのが真実のようですね。
明治26年にはあの板垣退助が、山中鹿之介の辞世として「憂きことの」の歌を紹介するほど、世間全体が信じ込まされてしまったそうです。
余談ですが、現代でも戦国モノの大河ドラマに鹿之介が登場することがあります。しかし年配の役者さんが配役されることが多いように思われます。
江戸時代の浮世絵なども中年男性が鹿之介として描かれていることが多いわけですが、実際の享年は33歳。若死にの悲劇の武将なのでした。
太田道灌
太田道灌「当方滅亡」
室町時代後期の武将・太田道灌(おおたどうかん)。上杉家に仕える武将でした。
……上杉謙信が活躍していたころから、百数十年ほど前の上杉家は山内(やまのうち)、扇谷(おうぎやがつ)、犬懸(いぬかけ)などに分裂していました。そして、扇谷上杉家に仕える知将として太田道灌は活躍していたのです。
太田の活躍もあって、扇谷上杉家は勢力を拡大していきます。ところが、他の上杉家内に扇谷上杉家の快進撃を妬む勢力がありました。
ある日、扇谷上杉家の当主・定正に、山内上杉家から書状が届きます。
そこには「太田道灌が、当家を討とうとしているのは本当か?」というデマがありました。
愚かなことに扇谷上杉家全体が、それを信じてしまいました。親族同士で殺し合いをさけるべく、太田道灌討伐が決定してしまったのです。
1468(文明十八)年、風呂から出たばかりの太田は賊に襲われ、命を落としました。
その時、「当方滅亡」と言い残したというのですが、この当方とは太田道灌本人のことではありません。
「私が死ねば、扇谷上杉家全体が滅びるよ」
という、いわば滅亡予言です(『太田資武状』)。
その予言は現実のものとなりました。
太田道灌を殺したにもかかわらず、扇谷と山内の上杉家は対立しはじめ、扇谷上杉家は衰退する一方でした。
1546(天文十五)年には滅亡。ちょうど上杉謙信の時代のことです。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
いくら小学生の劇とはいえ、歴史には忠実で、最後は切腹して終わるのが通例だとか。
しかし「やるだけのことはやったから」という雰囲気の中の切腹は、むしろ「さわやかなシーン」で、「悲壮感はない」のだそうです。
島根出身の漫画家・柏屋コッコさんにそう聞いた時には驚きました。最近も鹿之介の劇は上演されているのでしょうか?