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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2024年6月1日掲載

【徳川四天王】BLで16万石ゲット!家康から最も寵愛を受けた「井伊直政」の最期

「三河武士」でもなかった井伊直政が徳川家康に寵愛され大出世を遂げたのはなぜなのか?42歳で夭折した直政の人生について迫ります。

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直政の人生を大きく変えた、運命の出会い

「徳川四天王」の中で、生涯を通じ、もっとも家康から溺愛されていたのが井伊直政です。勇猛果敢な武者ぶりだけでなく、その男性的な美貌は世に広く知れ渡るほどでした。また、「四天王」の中でただ一人、いわゆる「三河武士」ではないことも直政の特徴だといえるでしょう。

少年時代の直政は虎松と呼ばれており、天正3年(1575年)、15歳で家康に召し抱えられることになりました。「只者ならざる面ざしの小童(しょうどう)」の虎松に、鷹狩り中の家康が目を留めた、と『東照宮御実紀(以下、御実紀)』には明記されています。『御実紀』で美貌について触れられているのは、直政とその子孫にほぼ限定されているのは、特筆すべき事実といえるでしょう。


家康の御小姓として雇われた虎松は、万千代と名を改め、19歳年上で当時34歳だった家康の側近くに仕えることになりました。また、万千代が元服し、直政と改名してからも、家康との硬い絆が揺らぐことはありませんでした。

家康は我が子以上に直政を・・・

慶長5年(1600年)9月15日、「関ヶ原の戦い」開戦の火蓋を切って落とし、いわゆる一番槍のほまれを得たのが、家康の四男・松平忠平と、彼の後見人となっていた井伊直政でした。旧豊臣方の武将・福島正則に任されていた役目を、家康の命令を無視してまで奪い取った直政、そして忠平でしたが、家康が彼らを処分することなどありませんでした。

また、豊臣方の武将・島津義弘の大軍が、徳川軍の真ん中を強行突破して退却しはじめた時(いわゆる「島津の退き口」)、直政・忠吉隊だけは島津家の鉄砲隊のすさまじい砲撃をものともせず、その追い上げを敢行しました。
しかし、敵軍の大将を討ち取ることはできず、直政は右腕あるいは右肘、もしくはその両方に鉄砲傷を負ってしまいました。

この日以降、直政が、重要書類にサインがわりに書き記す花押(かおう)を入れることはなく、判を押すようになったので、直政が右手に傷を負ってしまったことは確実だと思われます。

直政の負傷を知った家康は、我が子・忠平も直政同様に鉄砲傷を負ったと知らされているにもかかわらず、直政だけをやさしくねぎらい、皆の前で、自らの手で彼の傷に軟膏を塗りつけ、手当する様子を見せつけたのでした。
「負傷した我が子よりも、臣下の武将をいたわった家康の徳の高さ」を物語る逸話として解釈されてきたようですが、筆者には小姓時代からの変わらぬ寵愛を、家康から直政が受け取っていた証のように感じられてなりません。

ちなみに当時の武士社会の暗黙のルールとして、男性同士の同性愛は、正室および側室といった女性との関係とは完全に区別された関係で、当事者たちがすでに世継ぎを設けている場合、非難されるものではありませんでした。

一気に6万石加増し18万石に!

「関ヶ原の戦い」の後、家康は直政には6万石を一気に加増し、彼を佐和山18万石の城主の座に据えました。家康の吝嗇癖(=ケチ癖)は『御実紀』すら認める「公式情報」で、直政に示したようなあからさまな高待遇は、ほかの「四天王」には決して与えられることはありませんでした。

佐和山城は、かつて豊臣秀吉の重臣だった石田三成の居城でした。直政は慶長6年(1601年)に佐和山城に移りましたが、この頃にはすでに戦いで受けた鉄砲傷が悪化してしまっていたようですね。しかし、なかなか治らない鉄砲傷と体調悪化の中で、「三成の怨念」という言葉が、何度となく直政の脳裏をよぎったようです。

三成時代の佐和山城が落城する際、多くの女性たちが城から堀に身を投げて死んだという逸話を病床の直政は意識し、居城を別の場所に新築しようという計画もあったのですが、彼の体調の悪化速度のほうがはるかに早く、ついに直政は寝たきりになってしまいました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

寝たきり …

「関ケ原の戦い」で受けた鉄砲傷は比較的軽微だったのに、直政が回復できなかったことについては、鉄砲の鉛玉の一部が体内に残り、それが悪影響を与えてしまったという説があります。

こうして「徳川四天王」の中では、もっとも若くして亡くなってしまったのが直政です。家康が征夷大将軍に就任した晴れ姿さえ見られぬまま、慶長7年(1602年)2月1日、直政はこの世を去りました。まだ42歳の若さでした。

死の床の直政は、家康にもはや仕えることができなくなった我が身の不幸を嘆きながら、「祈るぞよ 子の子の末の 末までも 護(まも)れ近江の 国つ神々」という辞世を残し、世を去りました。直政が心配するのも無理はありません。彼の嫡男・直継はまだ13歳で、家康にはお目見えすらできていない状態だったのです。

直政の遺体は棺に収められ、善利川(芹川)の中洲の渡島に作られた大量の薪の山の上に安置された後、火葬されました。こうした独特の火葬法は直政の父親にあたる直親が、かつて井伊谷(現在の静岡県)の都田川のほとりで火葬された時の事例に倣ったものだと考えられます。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

直政の死が『御実紀』に書かれていない理由

徳川家康の公式伝記といえる『東照宮御実記』は、家康最大の寵臣であった直政の死について、なぜか一行も記していません。
ちょうど巻が改まり、次の巻に切り替わるというところで、直政は亡くなったということになっており、明らかに彼の死が目立たないように工夫されているのです。これは『御実紀』の編集者たちの方針だったとも考えられるでしょう。
その理由としては、最愛の直政を失った家康が、「天下人」の名にふさわしくないような悲嘆を見せ、公式伝記にはそうした記述を入れることがはばかられるほどだったから……かもしれません。

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