土方歳三「よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂(たま)は東(あずま)の 君やまもらむ」
土方歳三「鉾(ほこ)取りて 月見るごとに思うかな 明日は屍(かばね)の上に照るかと」
甘いマスクと、男気あふれる言動で、今なお人気の高い土方歳三。
趣味は俳句でした。
しかし彼の「代表作」としては「しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道」をあげざるをえません。
直訳すれば「すると迷う しなければ迷わない それが恋の道」。
なんじゃそれ、とツッコミをいれるしかないレベルの句です。
ファンからも「駄句」など評されていますね。
こういうのばかりを、わざわざ一冊にまとめてしまっているところは、お茶目といえるかもしれません(『豊玉発句集』)。
しかし、というか彼の和歌には、なかなか真に迫ったものが多い印象があります。
たとえば、土方歳三の辞世の歌として伝えられて有名なのものは、次の歌があります。
「よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂(たま)は東(あずま)の 君やまもらむ」
ほかに「たとえ身は 蝦夷の島根に 朽ちぬとも 魂は東の君や まもらん」というバリエーションも存在しています。
まぁ、どちらも「私が戦いで生命をおとし、北海道で肉体が朽ち果てたところで、魂は江戸の将軍を守り続ける」という意味になりますかね。
北海道へ…聞くも涙の悲惨な旅路
土方歳三は北海道・函館で亡くなりました。
なぜ彼が北海道に流れ着いていたのか……というと、それは語るも涙、聞くも涙の悲惨な旅路だったのです。
近藤勇(国立国会図書館蔵)
新選組を率いる隊長にして、彼の長年の親友・近藤勇が現在の千葉県にあたる流山で捕らえられたとき、土方歳三は運良く当地を脱出することができました。
彼が向かったのは会津(現在の福島県)です。
将軍・徳川慶喜が上野の寛永寺に「蟄居謹慎」の名目で引きこもってしまっているため、幕府軍の事実上の中心は、慶喜の側近だった会津藩主・松平容保となったからです。
ここで土方歳三は悲惨な結果となった「会津戦争」を戦い、敗走。
北海道の函館に向かいます。
当地で旧幕臣の榎本武揚の勢力に合流し、「陸軍奉行並」に任命されました。
旧幕府勢力を中心とするいわゆる「蝦夷共和国」に合流したのですね。
榎本武揚への拭いきれない疑念
幕末の榎本武揚
しかし、土方は榎本が、実は官軍(=新政府軍)との間に有利な降伏条件をさぐっているだけではないかと疑うようになります。
「私は死に遅れた」との発言も増え、実際に戦の都度、死に場所を探しているとしか見えない危険な行動を繰り返します。
明治2(1869)年5月11日、総攻撃を仕掛けてきた官軍との激戦のさなか、土方は「蝦夷共和国」の中枢部・五稜郭につうじる「一本木関門」の守備に赴きます。
ある(元)新選組隊員のミスで、味方全員が危機にさらされたことの尻拭いをするためでした。
しかし、当地で官軍の射撃を腹部に受け、乗馬姿のまま土方は亡くなった……といわれます。
あるいはすでに腹部を打たれており、乗馬中に失血死したとも。
享年35歳でした。
「蝦夷共和国」の幹部たちとの最期の宴
蝦夷共和国政権首脳
冒頭で紹介した歌については、北海道・函館での最後の日々の中、彼がこういう歌をつぶやいていたというのを、味方の生き残りたちが記憶し、書き残したものが出処だとされています。
イジワルな見方をすれば、俳句があのレベルなのだから、和歌もきっとアレな歌しか作れなかったはず。
回りの人が善意で添削してやったから、こういう微妙に違う歌が記憶されているのではともいえますし、もっといえば「すべてが嘘」。
誰かが土方にかわって、そこそこ上手に歌を詠んでやったのでは、とも考えられてきました。
しかし、平成23(2011)年、土方歳三が死の直前に残したと推定される歌が京都の「霊山歴史館」で発見されました。
土方の部下・島田魁が記録、仲間の和歌を記した帳面の冒頭に、土方の(作とされる)歌があったのですね。
それが
「鉾(ほこ)取りて 月見るごとに思うかな 明日は屍(かばね)の上に照るかと」
です。
刀を照らす月を見るたび、私は思ってしまう。
明日は私の屍の上を月の光が照らすのではないか……。
と、訳せる歌です(ちなみに原文表記は「鉾とりて月見るごとにおもふ哉 あすはかばねの上に 照かと」。やや分かりづらいので表記を一部あらためました)。
土方らが討ち死にする前夜の5月10日、函館にあって料亭で「蝦夷共和国」の幹部たちは最後の宴を開いたそうです。
この席上で土方によって詠まれた歌では……といわれています。
最初にご紹介した、「身体は失い、魂だけになっても、将軍家の行く末をオレは見守るぞ」というような元気さは消えさり、諦念すら感じられる歌です。
戦いで死にゆく運命にある我が身に、土方が思いを巡らせている感じはしますね。
生存説が根強い土方歳三
ちなみにというか、土方歳三の遺体は現在にいたるまで見つかっていません。
彼の墓は実はカラッポなのですね。
そもそも腹部を打たれた「だけ」で、死んだりするものか……という疑問の声は当時からありました。
意識を失っただけの土方を近隣の農家に運び込み、介抱したという逸話もあるにはあります。
人気漫画/アニメの『ゴールデンカムイ』の登場人物に、土方歳三がいるのにも「理由」があるわけですね。
老いてなお、鋭い眼光の土方歳三が登場してきたときには驚かされましたが。
将軍への忠義を明治の世でも抱き続ける「最後のサムライ」であり、またアイヌの金塊を手に入れ、蝦夷共和国を再興するという大望をいだき続ける『ゴールデンカムイ』の土方歳三の姿には、「生きていたら、本当はこうなっていたかも」と思わせる何かが感じられてしまいます。
明治時代にも土方歳三生存説は根強く存在、命拾いした彼がロシアに渡って、(腐敗した)明治新政府打倒の機会を伺っていると噂されていました。
しかし、その後、土方が歴史の表舞台に現れることは二度とありませんでした……。
この5月11日の激戦で亡くなった多くの「蝦夷共和国」の兵士たちと紛れ、函館のどこかに埋葬されたと考えるべきなのでしょうね。
晩年は兵に慕われ、また彼らを愛していた土方にとっては理想の死地だったでしょうが……。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
土方歳三を慕う部下で、元・桑名藩士の石井勇次郎は、土方の死のしらせを聞いた味方の様子を次のように表現しています。
「砲台に在る新選組、その長(=土方歳三)死すを聞き、赤子の慈母を失ふが如く悲嘆して止まず。あゝ惜むべき将なり」
慈父という単語もあるというのに、土方がなぜ慈母なのか?という部分にツッコミを入れたくなる人もいるでしょう。
これには定説がありません。
ただし、筆者なりに考えてみれば、隊員の多くは生まれた身分は低く、社会の中で居場所がない者たちばかりです。
そんな集団が新選組であったことが重要なのでしょう。
単独では無力な彼らは、指針を与えてくれる誰かの保護を必要としている赤子のようなもの。
赤子が無条件に恋い慕うのは父よりもむしろ母であろう……というあたりで「慈母」という表現が選ばれたのではないかな、と思われます。
土方本人は自分のことを「京都ではキ印と呼ばれていた」といっていますが……(キ印=狂気)
ちなみに土方が「裏切り」を懸念していたという、旧幕臣の榎本武揚ですが、官軍にやはり降伏。
一時は獄中で過ごしますが、後に新政府内で復権を遂げています。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
「新政府」を名乗り、また榎本武揚は新政府の「蝦夷島総裁」だったが、その「新政府」の人々は、「蝦夷共和国」を自称したことはない。