江戸時代もそろそろ中期にさしかかり、徳川の世も安定期にさしかかった四代将軍・徳川家綱の治世のこと。
武士たちはかつてのような「戦士」から、「役人」にシフトチェンジしつつあり、農民たちを指導監督する立場にありました。
しかし農民たちもおとなしく黙って武士の命令に従っていたわけではありません。
江戸時代を通じて多発した百姓一揆が、農民たちの扱いに武士たちが苦慮させられていた事実を証明しています。
はじまりは佐倉藩内で起きた一揆事件
さて興味深い話が、四代・家綱の時代、現在の千葉県佐倉市にあった佐倉藩で起きているのです。当時の佐倉藩主は堀田正信でした。
正信の父・正盛は、家光の寵臣として知られていました。
家光の乳母で、彼に絶大な影響力のあった春日局との縁故が正盛にはあるだけでなく、正盛は家光の長年に渡る「同性の恋人」であったため、異例の大出世を重ね、旗本から大名となり、佐倉藩主の座をえたのでした。
家光が亡くなった直後の慶安4(1651)年8月14日、正盛は殉死しています。
正盛の嫡男・正信が父の跡を継ぎ、佐倉藩12万石(石高には諸説あり)の藩主となったのですが、正信は「問題児」でした。
昔の武士のように生きたかったのでしょうか。
太平の世にもかかわらず、巨額の軍事費に藩の収入を費やし、いわばミリタリー趣味を満足させようとさらなる重税を佐倉藩の農民たちに課したため、ついに佐倉惣五郎(通称・宗吾)による一揆が起こったとされています。
しかし奇妙なことに、事件の仔細は一切不明になっているのです。
最近の研究で、正盛が藩主の座を継いだ1650年代に、佐倉藩内で年貢の改定が確かに行われ、税額が増えたということは確認されているのですが……。
おそらく、佐倉惣五郎がその後「偉人」として祭り上げられる中、その「罪」の側面の記録は意図的に消されていったのでしょうね。
重罪人とその子孫に優遇措置をとったのはなぜ?
歌舞伎などでこの事件を膨らませた『佐倉義民伝』という演目が人気でしたが、実際は不明な部分が多く、一時は佐倉惣五郎は実在していないという説が流れもしました。
しかし、佐倉藩関係の歴史を調べると、宝暦二年(1752)年に「宗吾百年祭」が執り行われており、その百年ほど前にやはり一揆か、それに類する事件があり、その首謀者として佐倉惣五郎が死刑になったことは「ほぼ」確実だとわかるのです。
一般的なイメージでは一揆の首謀者=重罪人であり、藩主の子孫としてはネガティブな思いを抱かずにはいられない存在であるはずですが、興味深いことに「宗吾百年祭」の中で当時の佐倉藩主・堀田正亮(ほったまさすけ)は宗吾に「宗吾道閑居士」の戒名をあらたに送って厚遇しているのです。
身分差別の厳しかった江戸時代、「居士」という戒名は、武士以上の身分にしか普通は与えられないものでしたから、かなりの優遇措置であることがわかります。
さらに寛政3(1791)年、当時の佐倉藩主・堀田正順は「宗吾道閑居士」の戒名を「涼風閑居士」とより雅やかなものに改めさせ、さらに「徳満院」という院号まで与えました。
江戸時代、戒名に院号がつくのは上級武士の特権のようなものです。
文化3(1806)年には、佐倉惣五郎の子孫に五石が支給されることになりました。
下級武士のサラリー程度ですが、農業従事者としての稼ぎのほかに、現在でいう50万円ほど毎年入ってくるわけですから、美味しい話です。
19世紀はじめの文化年間には、佐倉惣五郎の墓には各地からの参拝者も増え、墓掃除の専門スタッフが置かれるようになりました。
「宗吾二百年祭」が執り行われた嘉永5(1852)年には供養堂まで建てられ、これが現在にも伝わる「宗吾霊堂」の原型となったようです。
佐倉藩主・堀田家の面々が、農民一揆を起こした佐倉惣五郎の墓前に、ここまで手厚い「ケア」を重ねるのには理由がありました。どうやら「呪い」を恐れているのです。
藩主堀田正信の気狂いは佐倉惣五郎の呪い?!
BOOK1 [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], ウィキメディア・コモンズより
例の「問題児」正信ですが、万治3(1660)年10月8日、幕府の政治をとつぜん批判、それも「幕府のせいで人民が苦しんでいる!」などという文書を幕府の重役に突きつけました。
さらに無許可で佐倉に帰ってしまっており、この事件の責任を問われ、役人として完全に失脚したのです。
その後の人生を蟄居謹慎のうちに過ごすことになった堀田正信ですが、「幕府の政治で人民が苦しんでいる」という発想の持ち主であれば、なぜ佐倉惣五郎の一揆事件は起きたのでしょう。謎は深まります。
理由を求めるように、正信の奇行が、佐倉惣五郎の呪いではないかと巷では噂されはじめていました。
蟄居中なのに、無断外出など正信の問題行動はとまらず、親族は辛酸をなめました。
江戸時代、ある人物が罪を犯したり、重ねた場合、親族にも連帯責任があったからです。
また幕府の重役の家が任されていた佐倉藩藩主の座も、正信の奇行が理由で奪われてしまっていた時期がありました。
ちなみに堀田正信は晩年、阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に身柄を預けられていましたが、四代将軍・家綱が亡くなったと知ると、ハサミで喉を掻き切って殉死しています。
家綱は殉死禁止令を出していたにもかかわらず……でした。
家光に寵愛された父・正盛が殉死するならともかく、家綱から寵愛をうけるどころか疎まれていた正信が(蟄居中の身で刀を取り上げられていたので)ハサミで、しかも殉死が禁止されているのに死ぬなど、その行動の理由がまったくわからず、世間はここでも「佐倉惣五郎の呪い」を持ち出すしかなかったのですね。
堀田家が佐倉藩主の座に復帰するのは延享3年(1746年)、堀田正亮の代のことでした。
katorisi [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], ウィキメディア・コモンズより
東勝寺 宗吾霊堂
かつての藩主・堀田正信の方針に反旗をひるがえし、一揆を起こし、重罪人として処刑されたはずの佐倉惣五郎は年を重ねるごとに顕彰され、戒名も墓所もグレードアップしていきました。
佐倉惣五郎を裁いた堀田正信の記録は風化したのに、佐倉惣五郎は罪人どころか尊敬される偉人として祭り上げられていったのです。
江戸時代にはめずらしくなっていた、下剋上の一例とすらいえるのではないでしょうか。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
江戸時代では犯罪者本人だけでなく、その身内や関係者にも、罪を犯した当人の犯行を止められなかった罪が課されました。
「縁座」は親族・血縁者が、「連座」は血縁をもたない関係者が、いわば巻き添えで罪に問われることを言います。
わかりやすい例でいうと、寛政九(1797)年以降、幕府は二回ほど現代でいえば、女性理髪師に相当する「女髪結(おんなかみゆい)」を禁止する法令を出しています。
男性美容師の相場(現代の貨幣価値で一回につき560円)よりも大幅に高く、一回につき4000円程度稼げる仕事でした。男性の出入りが厳しい吉原遊廓などに出張したりで、重宝がられることもありました。
一方で、女髪結が男性客と怪しい関係になることも多く、幕府は「風紀を乱す」として女髪結を禁止したのです。
女髪結をした女性本人が百日の入牢、夫は罰金か30日の手鎖(てぐさり)、もしくは公開の場で棒で叩かれるなどの処罰がくだされました。この時、夫や利用者にも連座、縁坐で罰が及びました。
夫は自宅で手錠をはめられた状態で過ごす「手鎖(てぐさり)」という「禁固刑」や罰金、利用者も手鎖30日などです。
なお、裁判官にあたる奉行の判断によって連座・縁座の罪も重くなったり、軽くなったりしました。
ちなみに極めて稀なケースですが、女装男性による「女髪結」も処罰対象でした。
天保年間(1831年から1845年)の事件ですが、女装の女髪結・初(本名・初五郎)には、女性の女髪結に与えられる罰よりも大幅に重い罪、なんと「遠島(島流しの刑)」が与えられています。
これは当時の刑法では、処刑より一段階軽いだけの重罪です。
夫の金五郎も、江戸から追放されてしまっています。通常よりも大幅に重い罪を奉行所が彼らに課した理由はよくわかっていませんが……。